2008年03月13日
♪瀧 廉太郎♪偉大な作曲家・演奏家を知ろう☆
第1回目の偉大な作曲家・演奏家を知ろう☆では・・・
大分出身(???)の作曲家ということで、
「瀧 廉太郎」さん
について、お勉強したいと思います♪
私も、まだまだ知識不足なところがありますので、もし、ブログを読んでいる方が、もっと詳しいことを知っていたら、どんどん書き込んでくださいね♪
よろしくお願いします!
大分出身(???)の作曲家ということで、
「瀧 廉太郎」さん
について、お勉強したいと思います♪
私も、まだまだ知識不足なところがありますので、もし、ブログを読んでいる方が、もっと詳しいことを知っていたら、どんどん書き込んでくださいね♪
よろしくお願いします!
突然ですが~憾~ってピアノ曲しっていますか?
「憾」は大分の偉大なる作曲家、『瀧廉太郎』が亡くなる5ヶ月前に作曲した曲です♪
さぁ、今日は『瀧廉太郎』を学んでみましょ~
~♪Let’s Stady瀧廉太郎♪~
(瀧廉太郎全曲集・作品と解説より一部抜粋)
瀧廉太郎は明治12年8月24日に東京市に生まれた。
父、瀧 吉弘の長男として生れた。父が内務省に勤めていた関係で、たびたび転任したので、廉太郎も、しばしば学校を変えている。
小学校は明治19年5月神奈川県で入学、ただちに富山県師範学校附属小学校に転じた。ここで1年半をすごした。23年頃に父が大分県大分郡の部長であったため同年4月帰郷。同年5月大分県師範学校附属小学校高等科第1学年に転入学。24年、父が大分県直入郡々長に転じたため家族とともに竹田の町に移り25年1月直入郡高等小学校第2学年に転入。そして多感な少年期をここで過ごしたのである。そして27年4月竹田小学校を卒業した。ここでの2年有余の生活が廉太郎の音楽志望へ大きな影響を与えたと考えられる。同年9月東京音楽学校に入学、小山作之助先生をはじめ、多くの先生、先輩の庇護の元で勉学に励んだ。
明治29年12月12日、学友会の音楽会に初演奏している。
曲目はラインベンゲル作のバラードと言われている。
この演奏で彼の実力は大いに認められ賞讃さるた。この頃のピアノの師は恐らく明治28年11月ヨーロッパより帰国した幸田延子と推測される。一方、彼は美しいテノールの声を持っていて、学友会の音楽会に重唱や合唱にたびたび出演している。また管楽器でクラリネットを吹いていた事が分かった。専修部2年の頃から演奏だけでなく作曲、作詞の方にも頭角を現わし始めた。31年7月に専修部を優等で卒業、9月研究科に入学した。32年9月音楽学校の嘱託になって後輩の指導に当たる事になり、留学出発までの満2年間を熱心に指導した。この間に作曲、作詞したものが現在一番多く残っている。32年に作曲した『四季の瀧』はいままで旋律だけだったが自筆の2部に書かれた伴奏付の楽譜を見出した。33年10月1日ピアノ曲『メヌエット』11月1日組歌『四季』そして『幼稚園唱歌』の編纂をはじめ『荒城の月』『箱根八里』『豊田閤』もこの時代の作品である。また『友の墓』という外国曲に和声を付したものがあるが多分この頃の作品と推定される。
33年6月でドイツへの留学が発令されたが出発を延期して34年4月6日に横浜港をドイツ船ケーニヒアルベルト号で出帆した。42日の長い旅を終え、な5月18日ベルリンに到着。そして約3週間滞在、見物して6月10日にライプチヒについた。10月1日音楽学校コンセルウァトリアムの試験に合格。翌日より学生となって授業をうけている。
冬の訪れに瀧廉太郎は風邪を引き、ついに全快することなく翌35年8月下旬に帰国する事なった。10月17日横浜港に上陸。東京市にある瀧大吉の家に落ち着いた。
ただちに気候の良い葉山の『つる浜』に転地療養する予定であった。しかしはからずも11月23日、最大の理解者であった従兄の瀧大吉が脳溢血で他界。そのため転地療養をあきらめ、24日に東京を出発して大分の父母のもとへ帰った。

その頃、父は官職を去り大分市稲荷町339番地で(現在大分府内町遊歩公園瀧廉太郎銅像のある所)で悠々自適な生活を送っていた。瀧はここで『荒磯』をはじめ多くの作品を書いたであろう。しかし瀧の病気が胸の病であったため母が瀧の死後、焼いてしまい大分での作品は35年12月29日付の『荒磯』と36年2月14日付のピアノ曲『憾』のみが残っている。
梅雨の訪れに病気は一進一退となり、幾多の希望と理想を描きつつ、6月29日午後、23年と10ヶ月足らずの短い生涯を閉じたのである。。。
法名『直心正廉居士』
お墓は大分市顕徳町万寿寺内の墓地にある。この墓の外に東京音楽学校同窓生より『嗚呼天才之音楽家瀧廉太郎之碑』と自然石に刻まれた碑が建てられてある。
瀧廉太郎は、私が尊敬する作曲家でも、あります。
どう、尊敬するのか・・・
瀧廉太郎のころの時代の幼児唱歌は、外国の曲に日本の歌詞を付け加えたコピーのようなものでした。
それを良しとしない廉太郎は、自ら 作詞・作曲を手掛けた のです。
外国のまねではない・・・
日本独自の音楽を生み出したのは、瀧廉太郎だと、私は思います。
しかも、23歳という短い人生で、生み出した名曲の数々・・・
鬼才だと思います☆
「憾」という字は・・・
「心残り」という「憾」
「恨み」や「怨み」という字ではない・・・
それを踏まえた上で、この曲は、どういう弾き方が、正しいのか。。
なんに対しての「憾」なのか・・・
考えた上で演奏すると、音楽が、ピアノが、より深いものとなりますよ♪
各いう私も、まだ練習中・・・
この曲は結論、晩年にしか弾けない一曲なのかも、しれません。。。
ピアノの面白さ。
音楽の楽しさ。
それは「歴史を知る」ということ。
音楽を通して、タイムスリップできるのだと、私は考えています。
瀧廉太郎については、こちらでもお勉強出来ますよ
『大分活性化宣言
瀧廉太郎記念館』
http://active.junglekouen.com/e20375.html
mixiをしている方は、コミュニティを作りました♪奮ってご参加下さいね
大分の音楽を世界へ♪
http://mixi.jp/view_community.pl?id=2996669
よろしくお願い致します ☆
最後に、瀧廉太郎とキス・・・

[閉じる]
「憾」は大分の偉大なる作曲家、『瀧廉太郎』が亡くなる5ヶ月前に作曲した曲です♪
さぁ、今日は『瀧廉太郎』を学んでみましょ~
~♪Let’s Stady瀧廉太郎♪~
(瀧廉太郎全曲集・作品と解説より一部抜粋)
瀧廉太郎は明治12年8月24日に東京市に生まれた。
父、瀧 吉弘の長男として生れた。父が内務省に勤めていた関係で、たびたび転任したので、廉太郎も、しばしば学校を変えている。
小学校は明治19年5月神奈川県で入学、ただちに富山県師範学校附属小学校に転じた。ここで1年半をすごした。23年頃に父が大分県大分郡の部長であったため同年4月帰郷。同年5月大分県師範学校附属小学校高等科第1学年に転入学。24年、父が大分県直入郡々長に転じたため家族とともに竹田の町に移り25年1月直入郡高等小学校第2学年に転入。そして多感な少年期をここで過ごしたのである。そして27年4月竹田小学校を卒業した。ここでの2年有余の生活が廉太郎の音楽志望へ大きな影響を与えたと考えられる。同年9月東京音楽学校に入学、小山作之助先生をはじめ、多くの先生、先輩の庇護の元で勉学に励んだ。
明治29年12月12日、学友会の音楽会に初演奏している。
曲目はラインベンゲル作のバラードと言われている。
この演奏で彼の実力は大いに認められ賞讃さるた。この頃のピアノの師は恐らく明治28年11月ヨーロッパより帰国した幸田延子と推測される。一方、彼は美しいテノールの声を持っていて、学友会の音楽会に重唱や合唱にたびたび出演している。また管楽器でクラリネットを吹いていた事が分かった。専修部2年の頃から演奏だけでなく作曲、作詞の方にも頭角を現わし始めた。31年7月に専修部を優等で卒業、9月研究科に入学した。32年9月音楽学校の嘱託になって後輩の指導に当たる事になり、留学出発までの満2年間を熱心に指導した。この間に作曲、作詞したものが現在一番多く残っている。32年に作曲した『四季の瀧』はいままで旋律だけだったが自筆の2部に書かれた伴奏付の楽譜を見出した。33年10月1日ピアノ曲『メヌエット』11月1日組歌『四季』そして『幼稚園唱歌』の編纂をはじめ『荒城の月』『箱根八里』『豊田閤』もこの時代の作品である。また『友の墓』という外国曲に和声を付したものがあるが多分この頃の作品と推定される。
33年6月でドイツへの留学が発令されたが出発を延期して34年4月6日に横浜港をドイツ船ケーニヒアルベルト号で出帆した。42日の長い旅を終え、な5月18日ベルリンに到着。そして約3週間滞在、見物して6月10日にライプチヒについた。10月1日音楽学校コンセルウァトリアムの試験に合格。翌日より学生となって授業をうけている。
冬の訪れに瀧廉太郎は風邪を引き、ついに全快することなく翌35年8月下旬に帰国する事なった。10月17日横浜港に上陸。東京市にある瀧大吉の家に落ち着いた。
ただちに気候の良い葉山の『つる浜』に転地療養する予定であった。しかしはからずも11月23日、最大の理解者であった従兄の瀧大吉が脳溢血で他界。そのため転地療養をあきらめ、24日に東京を出発して大分の父母のもとへ帰った。

その頃、父は官職を去り大分市稲荷町339番地で(現在大分府内町遊歩公園瀧廉太郎銅像のある所)で悠々自適な生活を送っていた。瀧はここで『荒磯』をはじめ多くの作品を書いたであろう。しかし瀧の病気が胸の病であったため母が瀧の死後、焼いてしまい大分での作品は35年12月29日付の『荒磯』と36年2月14日付のピアノ曲『憾』のみが残っている。
梅雨の訪れに病気は一進一退となり、幾多の希望と理想を描きつつ、6月29日午後、23年と10ヶ月足らずの短い生涯を閉じたのである。。。
法名『直心正廉居士』
お墓は大分市顕徳町万寿寺内の墓地にある。この墓の外に東京音楽学校同窓生より『嗚呼天才之音楽家瀧廉太郎之碑』と自然石に刻まれた碑が建てられてある。
瀧廉太郎は、私が尊敬する作曲家でも、あります。
どう、尊敬するのか・・・
瀧廉太郎のころの時代の幼児唱歌は、外国の曲に日本の歌詞を付け加えたコピーのようなものでした。
それを良しとしない廉太郎は、自ら 作詞・作曲を手掛けた のです。
外国のまねではない・・・
日本独自の音楽を生み出したのは、瀧廉太郎だと、私は思います。
しかも、23歳という短い人生で、生み出した名曲の数々・・・
鬼才だと思います☆
「憾」という字は・・・
「心残り」という「憾」
「恨み」や「怨み」という字ではない・・・
それを踏まえた上で、この曲は、どういう弾き方が、正しいのか。。
なんに対しての「憾」なのか・・・
考えた上で演奏すると、音楽が、ピアノが、より深いものとなりますよ♪
各いう私も、まだ練習中・・・
この曲は結論、晩年にしか弾けない一曲なのかも、しれません。。。
ピアノの面白さ。
音楽の楽しさ。
それは「歴史を知る」ということ。
音楽を通して、タイムスリップできるのだと、私は考えています。
瀧廉太郎については、こちらでもお勉強出来ますよ
『大分活性化宣言
瀧廉太郎記念館』
http://active.junglekouen.com/e20375.html
mixiをしている方は、コミュニティを作りました♪奮ってご参加下さいね
大分の音楽を世界へ♪
http://mixi.jp/view_community.pl?id=2996669
よろしくお願い致します ☆
最後に、瀧廉太郎とキス・・・


[閉じる]
Posted by sinamon at 19:10│Comments(2)
│作曲家
この記事へのコメント
ハイ先生!
「憾」、知ってます!
大学の時、趣味で取った音楽の授業でやりました♪
「うらみ」って、面白いですよね。
心残りな感じなのに、最後は「やけくそ」なのか「やりきった」「やりきりたい」ような、叩きつけるような音。
確かに、音楽はその曲の背景を知れば何倍も広く深くなるものだと思います。
かく言う私も、楽器が何も出来ない故、クラシックは特に、「社会学」的視点から音楽を楽しんでおります。
ピアノ・・・楽譜だけは持ってるんですけどね^^;
いずれは・・・と思って、今に至ってますw
「憾」、知ってます!
大学の時、趣味で取った音楽の授業でやりました♪
「うらみ」って、面白いですよね。
心残りな感じなのに、最後は「やけくそ」なのか「やりきった」「やりきりたい」ような、叩きつけるような音。
確かに、音楽はその曲の背景を知れば何倍も広く深くなるものだと思います。
かく言う私も、楽器が何も出来ない故、クラシックは特に、「社会学」的視点から音楽を楽しんでおります。
ピアノ・・・楽譜だけは持ってるんですけどね^^;
いずれは・・・と思って、今に至ってますw
Posted by イヌヒ at 2008年03月14日 17:29
イヌヒさん
本当に、音楽って素晴らしいですよね♪作曲家に、その時代に思いをはせる…楽譜は私にとって、宝の地図のような物。。
何百年も昔のものが現代にも脈々と息づいてる…音楽って素敵です(*^_^*)
イヌヒさんも、良かったらワンコインレッスン、始めてみませんか?優し〜〜〜く教えますよ♪(笑)
本当に、音楽って素晴らしいですよね♪作曲家に、その時代に思いをはせる…楽譜は私にとって、宝の地図のような物。。
何百年も昔のものが現代にも脈々と息づいてる…音楽って素敵です(*^_^*)
イヌヒさんも、良かったらワンコインレッスン、始めてみませんか?優し〜〜〜く教えますよ♪(笑)
Posted by sinamon at 2008年03月15日 18:20