2008年04月26日

日本って、素晴らしい☆~ピアニスト・原智恵子さん~



最近、身近なものの見直しを始めたsinamonです。
「大分活性化宣言!」の仕事をお手伝いするようになって、大分の良さに気付いたり、家族と離れてみて、父親や母親のありがたさに気付いたり。。。

そんな中、最近、私の大切にしたいものは

「日本」「JAPAN」

特に見直しているのは…

「着物」

実は、実母は着付けの講師をしています。
だから、着物に関しては、あんまり抵抗がないんですね♪

それで、この間のコンサートも、着物で出てみました!

SAKURA先生も着付けの先生とのこと。
やっぱり、綺麗な女性は、着物が着れちゃうのかな?
…ということで、私も今、着物のお勉強中です!
着れるようになるんだい☆
詳しくは「毎日がpp♪」のほうに着物が着れるようになるまでを載せていきたいと思っています!

「原智恵子さん」ってPIANISTご存知ですか?

私は大好きなPIANISTなんですけど・・

彼女の生き方。

『凛』 としていて私は大好きです!
原 智恵子(はら ちえこ、1914年12月25日 - 2001年12月9日)はヨーロッパを中心に活躍した、日本人ピアニスト。夫はチェリストのガスパール・カサド。

神戸市出身。
13歳で渡仏しラザール・レヴィに師事、日本人で初めてパリ国立音楽院を最優秀で卒業。
1937年、第3回ショパン・コンクールに日本人で初参加。審査の結果は15位とされ、この結果に聴衆が憤慨。会場は警官隊が出動するほどの大騒ぎとなり、特例として彼女に「特別聴衆賞」を贈ることでようやく事態が収まった。なお、このコンクールではあくまで「15位入選」であり「入賞」したわけではないが、「特別聴衆賞」を受賞したことから、「入賞」とする意見もある。(ちなみに公式では日本人初入賞は田中希代子。)
1938年9月3日、一時帰国し国内を演奏旅行で凱旋。
11月25日、イタリアンレストラン「キャンティ」創業者、川添浩史(本名・川添紫郎、後藤象二郎の孫)と結婚。
12月に渡欧の予定だったが、翌年1月に延期。
1940年、世界情勢悪化のため、やむを得ず帰国。
1941年、長男・象郎を出産。のちに次男・光郎(現・「キャンティ」オーナー)も出産。
戦中戦後を通じ国内で演奏活動を展開。
川添と離婚後スペインに渡る。
1959年、チェロの巨匠ガスパール・カサドと再婚し、イタリアに定住することを決める。以後、ヨーロッパを中心にデュオ・カサドとして、またソリストとして活動した。
1966年カサドと死別。
1969年からフィレンツェで「カサド国際チェロ・コンクール」を主催、通算10回(1990年まで)開催。
1990年、体調を崩し日本へ帰国、そのまま療養生活に入る。
1997年、カサドの楽譜資料(シューベルトのアルペジオーネソナタの管弦楽編曲版などを含む)および自身愛用のピアノやチェンバロを玉川大学に寄贈。同大学ではその際に記念コンサートを催したものの、その後楽譜資料を公開していない。
2001年12月9日夜、老衰のため東京都内の病院にて逝去。葬儀の喪主は前夫との子・川添光郎が務めた。
2004年、前述の玉川大学へ寄贈品に含まれなかった遺品の中からバッハの「結婚カンタータBWV216」の自筆譜が発見され、国立音楽大学教授磯山雅らの鑑定により本物と確認される。

彼女は、戦後の日本では、なかなか受け入れられなかったといわれています。
あれだけ、素晴らしいピアノを演奏しながら、「自己主張の強い女」として、日本の社会から受け入れられなかったといわれています。
スペインに渡ったところからにても、情熱的な女性だったのでしょう。。

彼女は2001年に亡くなっていますが、病院の慰問コンサートの時に開演の1時間前から、キチンと正装して、コンサートが始まるのを心待ちにしていたようです。
音楽を愛する音楽家。
時代の波に翻弄されながらも、生き抜いた強い女性。

私は、彼女を尊敬しています。

まさに伝説のピアニストと言えると思います。

彼女の名を汚さぬように、襟を正して、生きていたい。

日本文化を発信していきたいと思います。


最後に大好きな一曲。一青 窈 さんの「かざぐるま」
曲もPVも大好きです♪

日本らしさ、大事にしたいですよね!!




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